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ルイヴィトンタイガ書類バック編集

 彼は、仕方なく窓を開けて、 「おい、こら、そこをどけっちゃ。しっ、しっ。」  と踏切のむこうの赤犬へいった。外はひどい寒さで、彼の吐く息が忽ち白い煙のようになった。  今度は、|呆気《あつけ》ないほど簡単に通じた。赤犬には、車の怕さなどよりも人間の|叱咤《しつた》の声の方がよほど骨身に染みているのだろう。すぐ腰を上げると、首をうなだれて、道端へゆっくりヘッドライトのなかを横切っていった。  彼は、トラックを出しながら、おや、あの犬、片方の耳がない、と、そのとき、はっきりそのことに気がついた。右の耳だけ異様に大きいと思っていたら、左の耳が、どうしたことか付け根のところから千切れてなくなっているのだ。 (あれは相当な野良犬だな。どこかで|悪戯《わるさ》でもして、ひどく痛めつけられたんだろう)  彼はそう思い、それから、ちょっと待てよ、と思った。あの赤犬を、前にいちど、どこかでみたことがあるような気がしたからである。あの長い大きな耳で思い出した。あんな耳をした犬、確かにどこかでみたことがある。  彼は、トラックのスピードを上げながら考えていたが、しばらくして、あ、あの犬だ、俺が空気銃で撃った犬だと、やっとのことで思い出した。あれは、去年だったろうか、おととしだったろうか。まだ|焼酎《しようちゆう》に胃をやられる前のことだから、多分おととしだったろう。酔い|潰《つぶ》れて、夕方、目を|醒《さ》ましてみると、裏の浜にどこからか耳の馬鹿でかい赤犬がきていて、これが|筵《むしろ》にひろげて干して置いた|鰯《いわし》を無断で食っている。よほど腹を空かしていたとみえて、呶鳴り声を上げても逃げようとしない。それで、空気銃で撃ってしまったが、さっきの赤犬はあのときの犬にそっくりだった。  あの犬がまた町へ舞い戻ってきたのだろうか、片耳になって、と彼は思い、それにしてもあの犬の左の耳がなくなっているのは俺の責任ではないのだと思った。あのとき、確かに彼はその犬の耳を狙って空気銃を撃ったが、手許が狂って弾は尻尾に当ったはずだった。犬がきゃんきゃんと悲鳴を上げながら、尻尾を中心にして|独楽《こ ま》のようにくるくる回転したことを|憶《おぼ》えている。だから、あの犬を片輪にしたのは俺ではないのだと彼は思った。  けれども、そうは思っても、彼にはなにか気掛かりであった。たとえむこうが野良犬でも、自分がかつて鉛の弾を撃ち込んだことのある相手が、なにやら|曰《いわ》くありげに尻尾を振りながら町へ舞い戻ってきて、しかも真先に自分の前に現われるとは、薄気味悪いことおびただしい。  彼は、気持が変に|苛立《いらだ》ってきて、くわえ煙草をいきなり窓の外へ投げ捨てた。というつもりだったが、窓は閉っていたので、煙草は窓ガラスに火花を散らして彼の|股倉《またぐら》に跳ね返ってきた。彼はあわててブレーキを踏んで、股倉から火の|点《つ》いた煙草を拾い上げた。  気をつけなければいけない。油にでも引火したら車が火事になるところだった。     二  その日、片耳の赤犬は町のあちらこちらに出没したが、朝の漁師の若者以外は、誰ひとりとして、その赤犬をみておととしのあの犬のことを思い出す者はいなかった。
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